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仙台高等裁判所 昭和52年(う)304号 判決 1979年2月05日

被告人 天野マサ

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人向江璋悦、同布施誠司が連名で提出した控訴趣意書、弁護人岡崎悟郎、同今井吉之がそれぞれ単独で提出した控訴趣意書にそれぞれ記載されているとおりであり、以上に対する答弁は検察官八巻正雄が提出した答弁書に記載されているとおりであるから、これらをいずれも引用する。

一  向江、布施両弁護人の控訴趣意第四点、岡崎弁護人の控訴趣意、今井弁護人の控訴趣意第二点について

所論は、事実誤認、法令の解釈適用の誤り、判例違反など種々主張するのであるが、その要点は、原判決が判示している被告人の百川六郎に対する合計六六〇万円の現金交付は公職選挙法一八七条一項にいう「選挙運動に関する支出」にあたらないというものである。

そこで、原審記録を調査検討し、当審における事実調の結果をも考え合わせ、所論の当否について判断すると、関係各証拠によれば以下のような事実を認めることができる。すなわち、(一)天野光晴は昭和五一年一二月五日施行の衆議院議員総選挙(以下本件選挙という)に際し福島県第一区から立候補して当選したものであり、それ以前にも総選挙には昭和三〇年以来七回立候補し五回当選しているものであること、(二)被告人は右天野光晴の妻であり、従来から同人の選挙運動に従事し、選挙運動費用の支出などを担当していたものであるが、本件選挙の公示の前日である昭和五一年一一月一四日ころ、夫の光晴から選挙運動費用として現金七〇〇万円を受取り、その際「事務所から必要経費として連絡のあつたものしか出してはいけない」といわれたこと、(三)その後被告人は、同年一一月一六日ころから一二月四日ころまでの間、原判決の別紙一覧表記載のとおり、前後一七回にわたり、原判示のあま乃旅館において、天野候補の選挙事務所で会計事務を担当していた百川六郎に対し現金合計六六〇万円を交付したこと、(四)右百川は昭和三七年の総選挙のころから天野の選挙運動費用の会計事務を担当していたものであり、本件選挙の際も右会計事務を一人で担当していたのであるが、原判決の別紙一覧表記載の各年月日ころ、あま乃旅館に赴いて被告人に会い、その都度「今日はいくらいくら支払いがあり、人件費にこれくらいかかりますので、これだけお願いします」といつたように説明したうえで、被告人から前記一覧表記載のとおり二〇万円ないし五〇万円の金を受領していたこと、(五)右百川は右のように受領した金を天野の選挙運動の人件費、通信費、交通費などに充てたこと、(六)被告人は百川から前記のような説明をうけ、時には請求書なども見せられたうえ、原判示のように現金を交付したものであり、その際百川に「労務賃はなるたけ早く支払いをしなさい」とか「受取りだけはちやんともらつておきなさい」などと話していたこと、(七)天野の選挙運動に関する公職選挙法上の出納責任者として従来の総選挙の時から長島徳重が選任されており、本件選挙の際も同人を出納責任者として選任した旨の届出が選挙管理委員会に対しなされていたのであるが、同人は右届出について相談をうけたことがなく了承もしておらず、本件選挙の運動期間中においても、天野の選挙事務所に顔を出したりはしたものの、選挙運動費用の出納事務には全く関係しなかつたこと、(八)被告人および前記百川は、右のように長島徳重が従来から出納責任者として選任されていることを知つており、本件選挙についても同様に選任されているものと考えていたが、前記六六〇万円の金の授受あるいはその支出等について長島と相談したり打合わせをしたりするようなことは全くなかつたこと、以上のような事実が証拠上明らかである。

右の事実関係によつて考えると、被告人の百川六郎に対する原判示の現金交付が公職選挙法一八七条一項にいう「選挙運動に関する支出」にあたることは明らかというべきである。すなわち、右現金交付は、候補者の妻から事実上の会計事務担当者に対しなされたものであり選挙運動費用の現実的、終局的な支払行為そのものではないけれども、直ちに選挙運動費用の支払に充てられることが予定されたものであり、右事務担当者の手許に保留されることは全く予想されていなかつたものとみられるのであつて、公職選挙法第一四章の諸規定の趣旨に照らし同法により定められた出納責任者の承諾を必要とすべき支出にあたると認められるからである。また、右現金交付が出納責任者又はその補助者に対する選挙資金の交付であるとは考えられない。百川六郎は、天野候補の選挙事務所の会計事務を実際上担当していたものではあつても、公職選挙法上の出納責任者ではなかつたのであり、出納責任者の補助者であつたと認めることもできないからである(公職選挙法二二一条三項三号、二五一条の二第一項二号などには、一定の要件のもとに、事実上の選挙運動費用支出者を出納責任者と同一に扱う旨の規定があるが、これらは当該条文の適用の関係においてそのように取扱われるだけであり、同法第一四章に規定する出納責任者にはこのような事実上の費用支出者は含まれないものと解される)。右百川は、原審ならびに当審公判廷において、自分は出納責任者長島の小走り役あるいは下働きとして被告人から金をもらい各種の支払いをしたものである旨証言しているのであるが、右証言は、同人の他の証言部分や同人の検察官に対する各供述調書などに照らし到底信用することができない。また、被告人も、原審第一回公判ならびに当審公判において、百川は出納責任者長島の使いであると考えて金を渡した旨の供述をしているのであるが、右供述は被告人の検察官に対する各供述調書、原審における証人百川六郎の証言その他の関係各証拠に照らし信用することができない。

以上のとおり、原判示の現金交付は、客観的にも被告人の主観的認識においても、公職選挙法一八七条一項にいう「選挙運動に関する支出」に該当するものと認められるから、この点に関する原判決の事実認定に誤りはなく、原判決が右一八七条一項の解釈適用を誤つたものということもできない。向江、布施両弁護人は判例違反の主張をし、最高裁判所第三小法廷昭和四六年七月二〇日決定、仙台高等裁判所秋田支部同四六年三月一六日判決を引用するのであるが、右第三小法廷決定ならびにその原審判決である右秋田支部判決を検討してみても、原判決が右の各判例に違反したものとは決して考えられない。右各判例は、当該事案における現金交付が選挙運動に関する支出にあたるものであること、右現金交付が出納責任者に対する寄付とは認められないことを判示しているのであつて、これを本件にあてはめてみても、本件の現金交付を選挙運動に関する支出とみることについてなんら支障となるものではないのである。結局、論旨はいずれも理由がない。

二  向江、布施両弁護人の控訴趣意第三点、今井弁護人の控訴趣意第一点について

所論は、事実誤認、理由のくいちがい、法令の解釈適用の誤りなど種々主張するのであるが、その要点は、原判決が罪となるべき事実においては出納責任者を長島徳重と判示しながら、弁護人らの主張に対する判断の項においては「長島徳重自身が不知の間に、同人を出納責任者とする旨の届出が選挙管理委員会になされていた」と認定しているのは前後矛盾するというのである。

そこで、原審記録を調査検討し、当審における事実調の結果をも考え合わせ、所論の当否について判断すると、本件選挙の際天野候補の出納責任者として長島徳重を選任した旨の届出が選挙管理委員会になされていたこと、しかし右長島は右の届出について相談をうけたことがなく了承してもいないことなどの点は、前記一(向江、布施両弁護人の控訴趣意第四点その他についての判断)において認定したとおりである。とすれば、右出納責任者の選任手続に瑕疵のあることは明らかであり、右長島を適法な出納責任者とみることには疑問があるといわなければならない。しかしながら、出納責任者の選任は基本的には民法上の委任にあたると考えられるとしても、その選任、解任、辞任などについては文書により選挙管理委員会に届出をすることが必要であり(公職選挙法一八〇条以下)、出納責任者の職務内容などについても公職選挙法に多くの特別規定が置かれていること(同法一八五条、一八七条、一八九条等)などからすれば、一旦選挙管理委員会に出納責任者として届出がなされた者については、その選任手続に瑕疵があつたとしても、その選任届出を当然かつ絶対的に違法、無効なものとみることはできないというべきである。そして、前記長島が従来の選挙から天野候補の出納責任者として選任されていたこと、被告人は本件選挙においても右長島が出納責任者であると考えていたことなどの点は前記一において認定したとおりであり、本件現金の交付が「選挙運動に関する支出」にあたることも前記一で示した判断のとおりであるから(なお、被告人は選挙運動に関する費用の収入、支出が原則として出納責任者を通じてなされるべきことを知つていたものと認められる)、被告人としては、本件現金の交付について出納責任者長島徳重の文書による承諾を得なければならなかつたものといわざるを得ない。すなわち、被告人が本件現金の交付について承諾をうけるべき相手方は誰であつたかといえば、それは出納責任者として届出がなされている長島徳重であつたといわなければならないのである。本件現金の交付が同人の承諾なしになされたことを適法とすべき理由はない。

以上のように考えれば、原判決が罪となるべき事実において「出納責任者長島徳重の文書による承諾を得ないで」と判示しているのは相当であり、そのことと、被告人側の主張に対する判断の項において「長島徳重自身が不知の間に、同人を出納責任者とする旨の届出が……なされていた」と認定していることとの間にはなんら矛盾がないというべきである。原判決に所論のような事実誤認、法令の解釈適用の誤り、理由のくいちがいはなく、論旨はいずれも理由がない。

三  向江、布施両弁護人の控訴趣意第一点および第二点について

所論は、原判決の事実誤認を主張するものであり、原判決が「百川六郎は出納責任者の補助者の立場で出納事務に従事していたものではない」と認定している点、および「被告人が百川六郎を出納責任者長島徳重の補助者であると錯誤により認識するような状況にもなかつた」と認定している点について、いずれもその認定は事実に反し誤りである旨主張する。

そこで、所論の当否について判断すると、原判決が被告人側の主張に対する判断の項において所論指摘のような認定をしていることは明らかであるが、既に前記一において判断を示したとおり、原判決の右認定はいずれも相当であつてなんら誤りはないというべきである。原審で取調べた各証拠ならびに当審における事実調の結果を総合しても、原判決の事実認定に所論の誤りはなく、論旨は理由がない。

四  向江、布施両弁護人の控訴趣意第五点について

所論は憲法違反、法令違反の主張であり、原判決が挙示している各証拠のうち被告人の検察官に対する昭和五二年三月二三日付供述調書は、検察官が被告人あるいは百川六郎の逮捕をほのめかし被告人に供述を強要したものであつて、その任意性に疑いがあるから、証拠能力を欠くものというべきであつて、これを証拠としたのは憲法三八条二項、刑訴法三一九条一項に違反するものである旨主張するものである(なお、岡崎弁護人の控訴趣意の末尾にも右三月二三日付供述調書は任意性がない旨の記載があるので、ここで合わせて判断する)。

そこで原審記録を調査検討し、所論の当否について判断すると、(一)所論指摘の三月二三日付供述調書の記載内容と、任意性について争いのない被告人の他の供述調書の記載内容とを対比してみると、三月二三日付供述調書が他の供述調書と異る点は、長島徳重について特に言及している点であつて、要するに、被告人は百川六郎に本件の現金を交付した際長島徳重のことは全く考えておらず、百川との間で長島に関する話をしたこともなく、選挙費用の支払は百川に全面的に委せたものである旨の供述をしている点が右三月二三日付供述調書の特徴であるとみられるところ、右の供述内容は、被告人の他の供述調書からもある程度推認できるものであり、三月二三日付供述調書と他の供述調書とは別段矛盾対立するものではないと考えられること、(二)右三月二三日の場合を含め、検察官が被告人を取調べた際には、当時被告人が入院中であつたことから、医師を検察庁に同行させて待機させ、取調の途中随時休けいさせるなどの配慮をしていたことが原審における証人樋口宗弘の証言などから明らかであること、(三)被告人が右三月二三日の取調べをうけた後、岡崎悟郎弁護士の事務所に赴き、検察官に再度の取調を求めることについて同弁護士と相談をしたことは証拠上明らかであるが、当審で取調べをした岡崎弁護人作成の再取調べ請求陳情書(写)や原審ならびに当審における被告人の供述によつても、被告人が三月二三日付供述調書のどの部分を不満とするのか明確でないこと、以上のような諸点を総合し、その他三月二三日付供述調書の形式、記載内容、検察官の取調状況に関する被告人の原審ならびに当審各公判廷における供述などをも考え合せれば被告人の前記三月二三日付供述調書の任意性に疑いを抱くべき理由はないものと認められる。右被告人の原審ならびに当審各公判廷における供述のすべてをそのまま信用することはできない。従つて、原判決が右三月二三日付供述調書をも含め被告人の検察官に対する各供述調書を証拠として挙示しているのは相当であり、所論のような憲法あるいは刑訴法の規定に違反するものとは考えられず、論旨は理由がない。

五  向江、布施両弁護人の控訴趣意第六点について

所論は、本件現金の交付について原判示の法令を適用し処罰するのは憲法一五条三項、四四条に規定する選挙の自由と平等選挙の原則に違反し、憲法二一条一項の集会、結社、表現の自由の保障にも違反すると主張する。

しかしながら、原判決が原判示罪となるべき事実を認定しこれに公職選挙法二四六条四号、一八七条一項の規定を適用して被告人を有罪としたのは相当であり、そのことが所論の引用する憲法の各規定に違反するものとは全く考えられない(原判決の理論をおし進めれば出納責任者が選挙費用を受領する道を閉ざす結果になるものとは決して考えられない)から、原判決に所論の憲法違反はなく、論旨は理由がない。

六  今井弁護人の控訴趣意第三点について

所論は、本件における長島徳重を出納責任者とする選任届出は無効であるとし、そうすると、本件選挙においては公職選挙法一八三条により候補者である天野光晴本人が出納責任者の職務を行うべきことになるところ、被告人は右候補者本人の代理人又は補助者として金銭の交付を行つたものであるから、出納責任者の文書による承諾はなんら必要でなく、この点において原判決は事実を誤認しあるいは公職選挙法の解釈を誤つたものであると主張する。

そこで、所論の当否について判断すると、本件における出納責任者の選任手続には瑕疵があるけれども、それだからといつて長島徳重の選任届出を当然かつ絶対的に無効とみることはできないというべきこと前記二において判断を示したとおりであり、本件選挙運動の期間中において右選任手続の瑕疵につき関係者の間で疑義が生じたりしたことはなかつたのであるから、天野候補の本件選挙運動について公職選挙法一八三条が適用されるべきものとは全く考えられない。従つて、天野候補自身が出納責任者の職務を行うべきものとする所論は失当というべきであり、原判決には事実誤認も法令適用の誤りもないことになるから、論旨は理由がない。

以上のとおり、論旨はいずれも理由がないから、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することにし、当審における訴訟費用の負担につき同法一八一条一項本文を適用のうえ、主文のとおり判決する。

(裁判官 杉本正雄 千葉裕 清田賢)

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